北京で、老人に席を譲られたことがある。ちょうど10年前のことだ。
私は最初の子を妊娠していて、路線バスに乗っていた。バスはそれほど混みあっていたわけではなく、すぐに降りるつもりで、乗降口付近の握り棒につかまって立っていたところ、後ろから声をかけられた。
振り向くと、小柄で背筋のすっと伸びたおばあさんが、ニコニコと微笑んでいた。白髪交じりのおかっぱ頭、襟付きシャツにズボンという服装の質実剛健なおばあさんだった。70歳くらいだろうか。「座りなさい」と言われて、私は恐縮した。

臨月ならまだしも、まだやっとおなかが目立ち始めた妊娠7か月。ご老人に席を譲られるなんてとんでもない、私はすぐに降りるからと固辞した。おばあさんは諭すように優しく言った。
「あなたは、今は席に座らなければならない時なのよ。一駅でもいいから座りなさい」
私の手を引いて席まで連れて行き、座らせてくれた。
涙が出そうだった。北京では、誰もが妊婦に優しかった。満員電車で、高校生の男の子がいち早く妊婦の私を見つけて席を譲ってくれた。北京で出産した後も、赤ちゃん連れで地下鉄など乗ろうものなら、老若男女、あれこれ世話を焼いてくれた。
赤ちゃんは水戸黄門の印籠のようだと思った。

北京とは違い、日本では子連れは基本的に肩身の狭い思いをする。妊婦に席を譲ってくれるのは、出産を経験したと思われる同世代の女性くらい。男性は、まず妊婦の存在に気づかない。電車では、ベビーカーを畳んで肩に抱え、赤ちゃんを前に抱っこし、両手に子供をぶら下げて、子供が泣かないように騒がないように小さくなって乗るのがよしとされる。そしてそれは不可能に近い。
日本の都会で暮らすお母さんならみんな当たり前のようにやっていることだが、北京の経験があったから、どうしていつもこんなに遠慮しながら子育てをしなければならないのだろうという気持ちが常にあった。

中国を離れ夫の転勤であちこち転々とした。北京生まれの長女に続いて、日本で次女が、カナダで長男が生まれた。今はドバイで暮らしている。
海外暮らしも長くなり、多様な価値観に触れて、日本の電車の中での出来事も一種の文化なのだろうと思えるようになった。
日本人は、人に迷惑をかけないことを美徳とする。周囲に迷惑をかけない配慮が、日本人のマナーの良さにつながる。「迷惑をかけない」文化の下で、子育てをすると、多少窮屈な場面もあるということだ。

逆に、子供に優しい、子供を大切にするのが中国の文化なのだと思う。中国人観光客のマナーの悪さが話題になる昨今だが、満員電車で、妊婦を素早く見つけて席を譲ってくれる中国人の優しさにスポットが当たらないのが、とても残念だ。

一年ぶりに日本に一時帰国し、子連れで京都・奈良に一泊旅行した。どこの観光名所も外国人であふれていて、「円安」を肌で感じた。京都の観光バスは、常に満員。外国暮らしが長いわが子は、席を譲られるのが当たり前と思っているようで「席がない」と文句をいう。「ここは日本だから」となだめていたら、席を2度も譲ってもらった。譲ってくれたのは、なんとどちらも中国人観光客だった。
中国人の優しさが変わっていないのを知って、とても嬉しかった。

カテゴリ:いぶこみの風景
投稿者 :森中 野枝